ユグノーの書庫
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第一幕 佐藤健太郎 「はい、九十四ページの定理六。Rのn乗内の有界閉集合Mで定義された――」 教授の講義は訥々と続いていた。 高校の教室ほどの広さの講義室はその半分も埋まってはいなかった。 僕は必死にノートを取るだけで、頭には全く入ってはこない。 当然と言えば当然で教授は僕らに教えるつもりなんてさらさらないんだろう。講義なんて研究の片手間でやっているだけなんだから。 僕らに必要とされているのは理解ではなく暗記であることを僕は悟っていた。 大学に入れば、中学高校のようなただの頭の訓練ではなく、意味のあることができると思っていた。 だが実際は、大学も同じだった。しいて言えば、大卒という箔をつけるためだけに通っているようなものだ。少なくとも僕の限りにおいては。 そう考えてからは講義もさぼりがちになり、必要最低限しか出席しないようになってしまっていた。 大学二年目にして単位もぎりぎりなのは言うまでもない。 「はい、今日はここまで。次までに百五ページの問一から問九をやっておくように」 今日の講義はすべて終わり皆散り散りに帰っていく。 「佐藤、これからカラオケ行かね?」 と、大学からの友人である桜庭が声をかけてきた。 「今日、バイトあるから、また今度」 「そっか。ま、しょうがねーな」 桜庭は残念そうに他の友人の元に戻っていった。 僕は大学を出ると、急いでバイト先へと向かった。時間的に結構ぎりぎりなのだ。 バイト先であるパチンコ店は学校から自転車をかっ飛ばして二十分ほどにある。 勤めだしてから半年ほどになるが、小さいミスは数知れず、まだ新人と言っても差し支えなかった。 バイト先に着くと、まずは更衣室に向かう。 ロッカーが立ち並ぶそこに、バイト先の先輩である神谷がいた。 「おはようございます」 僕は一応挨拶をしたものの、神谷は返す素振りも見せず、すぐに出て行ってしまった。 正直、神谷は嫌いだ。 神谷は仕事もそつなくこなし、僕とは大違いだ。ただ、先輩や客に対してと僕ら後輩に対しての態度がまるで違うのがいけ好かないのだった。 わかってる。ただの僻みだ。 僕は更衣室で菓子パンを一つ食べると、制服に着替え、バイトの休憩室に向かった。 室内は白く煙っていて、足元には雑誌やコーヒーの空き缶が転がっている。真ん中に置いてある机には灰皿が置かれ、吸い殻の山ができていた。 社員からは掃除をするようにとは言われていたが、実際掃除をする人なんていやしなかった。 そこには十人弱のバイト仲間が所狭しと椅子に座っていた。 僕はタイムカードを差し、インカムを装着すると、その辺の椅子に座った。 ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえて火をつけた。 肺にまで煙を入れ、ふぅと吐き出す。何とも言えないこの退廃感が好きだった。 僕が煙草を吸う理由はたぶんここにいるバイト仲間とは違う。ただの緩やかな自殺にすぎないのだ。 いつの頃からか僕は死にたい衝動に囚われるようになっていた。ただ、そんな勇気もない僕はただこうやって、死への道程を縮めているだけなのだ。 他のバイト仲間は僕への心地良い無関心さでそれぞれの会話に興じているようだった。 「昨日声掛けた女なんだけどさ。マジかわいいの。その癖すぐやらしてくれるもんだから。超ラッキーだった」 「あんた、そんなことばっかやってると、子どもできちゃって大変よ?」 「大丈夫だって。ちゃんとゴムつけてっからさ。俺そういうところは律儀なんだよね」 「あんた、抜け目なさそうだもんね」 女の方が額に手を当ててあきれている。 神谷は二人の会話に聞くともなしに相槌を打っているようだった。 「おい、そろそろ始めるぞ」 社員の松下さんがバイト室に入ってきたので、僕は煙草を揉み消した。 「それじゃあ、点呼を取るぞ」 皆立ち上がり並んだ。 「佐藤」 「はい」 他のバイト仲間も返事を返していった。 「大内。おい、大内はいないのか? ったく、後であいつに電話して怒鳴らねぇと。仕舞にゃクビになるぞ」 松下さんは大層怒っているようだったが、僕には関係のないことだ。 「あー、今日、早番で玉をぶちまけた奴がいる。皆、気を引き絞ってそういうことのないように」 『はい』 「じゃあ、声出し。今日は、んー。佐藤やれ」 「あ、はい」 ホールはBGMやら台の音で大声を出さないと客に伝わらない。だからホールに出る前にはこの声出しをするのだ。 指名された者がまず声を出し、それに皆が続くという感じだ。 「いらっしゃいませ!」 『いらっしゃいませ!』 「少々お待ちくださいませ!」 『少々お待ちくださいませ!』 「お待たせしました!」 『お待たせしました!』 「はい、どうぞ!」 『はい、どうぞ!』 「申し訳ございません!」 『申し訳ございません!』 「ありがとうございました!」 『ありがとうございました!』 僕は間違えなかったことに安堵していた。言う順番もあるのだ。 「はい、じゃあ、みんな行った行った」 社員に押し出されるようにしてホールへと向かった。 今日の僕の担当は西側の三コースだ。一コースにつき三十二台ある。 夕方ということもあり、客も結構付いている。稼働率は九割といったところだろうか。 早番と交代し、 「佐藤、三コース入りました」 と、インカムで報告を入れた。 空き台を清掃し、客の玉の上げ下げをし、ときに玉を交換しにいく。 この店では立ち止まっている暇なんてないのだ。立ち止まっていたら、客の呼び出しランプがいくつも点灯することになりかねない。 玉の上げ下げは台の状況を把握していれば呼ばれる前に行うことができる。 エラーや玉詰まり、交換などの仕方のないこと以外で、客の呼び出しランプが点くということは、自分のコースがきちんと仕込めていないということの露呈になり、ここのバイト員にとっては屈辱なのだった。 ただ、僕の場合は結構呼び出されてしまうことが多く、憂鬱になる。 スピードが遅いせいで後手後手になってしまい、社員の手を借りることも間々ある。 今だってそうだった。 「佐藤、何やってんだよ?」 「はい、すいません」 自分の無能さ加減が本当に嫌になる。そして、こんなパチンコ屋のバイトがうまくなっても意味ないじゃないか、と自分を慰めるのだった。 夕方から始まったバイトは夜遅くまで続き、終わったのは午前〇時だった。 終礼が終わると、バイトの休憩室の会話をよそに僕はそそくさと更衣室へ行くのだった。 「はぁ、死にたい」 僕はロッカーに手をつくと、そうひとりごちた。人生に何の意味も見いだせず、いつの間にか口癖になっていた。 「じゃあ、死ねば?」 不意に声をかけられ、僕は驚いて振り返った。更衣室の扉を開けて立っていたのは神谷だった。 「あ」 「死にたいなら、さっさと死ねばいい」 僕は返す言葉が見つからず立ち尽くしていた。 「邪魔だ、どけ」 神谷は僕を手でぐいっとどかすと、ロッカーから服を取り出し着替え始めた。 僕の制服は汗まみれになっているにもかかわらず、神谷は汗一つかいていない。 Tシャツの袖から伸びた腕は筋肉が盛り上がり、僕のそれとは比べようもなかった。 神谷はさっさと着替え終ると、更衣室から出て行った。 僕はどうしてこうなってしまったんだろう。寮と大学とバイトの往復に嫌気がさしていた。 僕はこんなんでいいんだろうか。
田中汐音 「おかえり!」 あたしは、夜遅く帰ってきた彼氏であるトオルに勢いまかせに抱きついた。 「いい子にしてたか?」 トオルはあたしのショートの髪をなでなでしてくれる。 「うん、いい子にしてたよ。ねぇ、夕飯にする? お風呂にする? それともあ・た・し?」 あたしは冗談めかして言ったが、 「お腹空いたから飯にしようぜ」 と、完全にスルーされてしまった。でも、めげないもん。 「ねぇ、見て。あたしが作ったんだよ」 そう言って、あたしは両手を広げ、テーブルに並べられた料理を披露した。 でも実はスーパーで買ってきた惣菜を皿に盛っただけなんだけど、それは言わない。 「お、うまそう」 トオルはクッションに座ると、いただきますも言わずに箸をつけた。 「ねぇ、おいしい?」 「んあ、うまいよ」 「うれしい」 あたしはそれだけで舞い上がってしまった。 あたしがここに住み着いてから二年が経とうとしていた。高校を卒業してすぐに家を出ると一人暮らしをしているトオルの家に転がり込んだのだ。 あたしもクッションに座ると、皿に盛られただけの総菜を口に運ぶ。 お母さんには、料理くらいできないとお嫁にいけないわよ、なんて言われてたけど、そんなことないじゃんね。まだ結婚はしてないけど、こうやって幸せな家庭を築けるんだもん。 「今日さ、マジ参ったんだよね」 トオルが箸を止めて話しかけてきた。 「どうしたの?」 「社長に怒鳴られたんだよ」 トオルはあたしより五つ上で確かアパレル関係の仕事についていたはずだ。 「マジで? トオルにうるさく言うなんて、あたしがやっつけちゃうんだから」 トオルをいじめる奴はあたしが許さないわ。 「そいつ、年下のくせに社長なんだぜ? やってらんないよ、親の七光りのくせに」 「マジで?」 「お前と同い年くらいじゃないのかな。たぶん」 世の中にはすごい人がいるもんだ。 「俺の仕事に文句つけてきてさ」 「あたし、ちょっとシメてくる」 「いやいや、待て待て。それはちょっとまずいかな……」 「なんでよ?」 「お前なら本気でやりかねないからな」 当たり前じゃないのよ。トオルのためならなんだってするわ。 例え火の中水の中よ。 「住所」 「え?」 「会社の住所を教えて」 「いや、だから」 「いいわ。じゃあその人の名前を教えて」 「いや、その」 「調べ上げて、とっちめてやるんだから」 「まあまあ、落ち着いて」 「落ち着いてなんかいられないわ。あたしのトオルがぶじょくされたのよ!」 「そこまで言ってないからね」 あたしはいきどおりのまま立ち上がりファイティングポーズをとる。 「しゅっしゅ。しゅっしゅ」 そして、ボクシングのシャドーをする。 もちろん、その向こうにはその社長とやらがすえられているのだ。 「もう、しょうがないな」 トオルは立ち上がるとあたしを抱きしめてくれた。 「俺を心配してくれるなんて、汐音は優しい子だな」 その言葉にあたしはさらに舞い上がって、真っ赤になってしまう。 「だって、大好きなんだからしょうがないでしょ」 あたしは、目を閉じ、唇を尖らせて、キスをねだる。 トオルの唇があたしの唇を温めてくれた。 そのキスはおからの味がした。 「さ、こんなことしてないで飯の続きだ」 トオルが座り直したので、あたしも座り直した。 「トオル、キス上手だよね」 「そんなこと、面と向かって言われても」 トオルは恥ずかしそうに箸を進めていた。 夕飯を食べ終わるとトオルは風呂に入りにいった。もちろん、湯はすでに入れてあり、温め直せばすぐに入れる状態にしてあった。 あたしは、テレビのドラマを見ることにした。 そのドラマに出ている俳優がとてもかっこよくて毎週見ているのだ。 医者である主人公が、ふとしたきっかけで出会った女の人を助けたところからその恋は始まるのだ。 その主人公がかっこよすぎて、あたしとしては非の打ちどころがない。 優しいし、かっこいいし、金持ちだし。 トオルの二番目に好きかな。 トオルと出会ったのは高校三年の時だった。 その時、元彼のバイクの後ろにあたしは乗っていた。 その元彼はあたしが後ろに乗っているにもかかわらず、いや、乗ってたからこそかっこつけたかったからか、スピードを出し過ぎて案の定事故った。 元彼とあたしは骨折しまくって、病院送りになった。その事故の時に救急車を呼んでくれたのがトオルだった。 そう、完全に一目惚れだった。 馬鹿な元彼に愛想が尽きたあたしは、トオルにへばりつき、その努力の結果としてトオルを射止めたのだ。 始まりは一目惚れだったかもしれないけど、トオルは優しいし、かっこいいし、エッチもうまいし、あたしの誇れる彼氏だ。 ドラマが終わった頃、トオルが風呂から上がってきた。トオルは結構長風呂なのだ。 頭をバスタオルで拭きつつ下着一枚でリビングの方にやってくる。 そんなに体を見せつけられても、あたし困るんですけど。 「じゃあ、あたしも入るね」 あたしは立ち上がると、バスタオルとスウェットを持ち風呂へと向かった。 洗面所でトオルのためだけのメイクを落とし、風呂場へと踏み込む。 シャワーを浴び、浴槽へと浸かった。 やっぱり、風呂はいいよね。なんか心も洗われる感じ。 ただ、熱いの嫌いだから、さっさと髪と体を洗って、風呂場を出た。体を拭いて、スウェットを着るとドライヤーで髪を乾かす。 ショートにしてると髪が渇くのも早くていいよね。 あたしは、リビングに戻るとトオルの横に座ってテレビを見る。 トオルの体温が伝わってきてとても温かい。 テレビでは流行りのお笑い芸人がどっきりを仕掛けられて怒っていた。 「この芸人もすぐ消えるのかな」 あたしは何ともなしに呟いた。 「かもね」 トオルはその呟きに返してくれた。 消えていった芸人は一体何をしているのだろう。やっぱり別の仕事でもしてるんだろうか。そしていつか、あの人は今、とかに出るんだろうな。 「なんか、かわいそう」 「まぁ、しょうがないさ」 あたしが憐れんでもしょうがないことではあるけど。 「あたしは、いなくなったりしないからね」 「うん」 「あたしは、ずーっと、トオルと一緒だもん」 あたしはトオルの肩に頭を寄せた。 「そうだね」 トオルの肯定が素直にうれしかった。 そう、あたしとトオルはずっとずっと、死ぬまで一緒。 その後、あたしとトオルはいつものように体を重ねた。
村上雅哉 「よお、いつもすまんな」 俺は金を受け取ると、ナイロン袋に入ったそれを手渡した。 「いやいや、あんたらのおかげで飯が食えるんで、俺も助かってますよ」 と、俺はスキンヘッドの男に向かって言った。俺からしたら皮肉でしか無いんだが。 そのロン毛の男はうれしそうに去っていった。 馬鹿な奴だ。 金を絞られるだけのただのカモでしかないというのに。 金を財布の中にしまった。財布の中には万札がひしめいていた。 預金しに行くのが面倒だ。いっそ振り込んでくれ、と思わなくもないが、アングラでの取引である以上無理な相談だった。 カバンの中に小分けにされているそれは、紛れもなくドラッグなのだった。 上から買い取ったドラッグを下に捌く。それだけで大金が手に入る何とも簡単な商売だ。 俺は一仕事終えた足でいつものバーに寄った。 落ち着いた雰囲気で、店内は薄暗く、流れているR&Bが耳に心地良い。 半地下になっているせいか客もまばらで、隠れた名店といった感がある。 俺はカウンターの端に座ると、バーテンダーに、いつもの、と頼む。 カウンターには俺以外には女が一人座っているきりだった。 女の方を見やる。 その女は注文したカクテルを一口、口に含んだ。 何ともそれが絵になっていたので、俺は見とれてしまった。 すると、あまりに見過ぎてしまったからか、その女がこちらを向いて微笑みかけてきた。 俺の頭が計算を始めた。 俺は出されたウィスキーに口をつけると、バーテンダーを呼びつけ、 「あちらの女性に、好みに合わせて何かカクテルを」 と、注文した。 出会いは大切に、だ。 もしかすると使える女かもしれない。 女は便利だ。俺の客の大多数は男だからだ。 それに少なくともあの女自身が俺の客になることもあるかもしれない。 バーテンダーが女に注文したカクテルを差し出した。 「あちらの男性からです」 バーテンダーがこちらを手のひらで差していたので軽く女に向かって微笑む。 もちろん、営業スマイルというやつだ。 女は立ち上がると、そのカクテルを持って俺の席の隣に移動してきた。 第一段階クリアと言ったところだろうか。 「ありがとう」 少し茶色に染まったショートヘアがカウンターの照明を受け、落ち着いた輝きを放ち、薄化粧であるにも関わらず、その顔のパーツはどれも主張を怠らない。白の落ち着いたスーツがとても良く似合っていた。お世辞抜きに奇麗だった。 それはつまり使い勝手がいい女の第一条件だった。 「いえ」 「こんなことされるの初めてだからびっくりしたの。男の人の中にはキザだって嫌う人もいるけど、私はそうは思わないわ」 「良かったです」 「女は雰囲気を愉しむ生き物なのよね」 女はカクテルに口をつける。 「雰囲気?」 「そう。やっぱりこういうシチュエーションはあこがれるものなのよ」 明らかに俺より一回り年上で何を言っているんだこの女は。 「そうなんですか」 「そういえば、あなた、何歳?」 「二十歳です」 ここで嘘をつく必要はない。年齢を誤魔化すのは結構大変だし、年下だろうとそれを活かせばいいだけのことだ。 「やっぱり。結構若く見えたから」 「あなたは?」 「女性に年齢を訊くものじゃないわ」 女はツンとした表情を見せた。 この女は他人に見せるために自分を作っている。さっきの言葉といい、妄想の強い女なんだろう。 「でも、これのお礼に教えちゃおうかな。もう二十八になるわ」 「そうは見えませんよ」 真摯な表情を作って言った。 歳を訊くだけだと女の警戒を強めるだけだが、その後の言葉でそれを逆に解くこともできるのだ。 「もう、私を口説き落とそうとでも言うのかしら。素直に受け取っておくことにするわ」 女は軽く微笑み、足を組み替えた。 「ここ、いい店ですよね。BGMのセンスもいいし」 「洋楽とか詳しいの?」 「いや、そういうわけではないんですが」 突っ込まれたら困るので下手な嘘はつかない。 「私、この曲好きなのよね。この曲が入っているアルバムは家でもよく聴くのよ。甘いエモーショナルな声が私の感性を刺激するの。そして声を張り上げた時、むせび泣くような声になって、そこがまたいいのよね」 と、女は力説した。 女のツボをヒットした話題だったらしい。俺としてもあきれてしまった。 「あ、ごめん。私の世界に入ってしまっていたわ」 女性はカクテルを手に取り口に入れた。 俺は、 「そのカクテルおいしいんですか?」 と、訊いてみた。 「あら、知らないのに頼んだの?」 「あなたの好みに合わせて作ってほしいって言っただけなんで」 「じゃあ、飲んでみる?」 「え?」 「ほーら」 女がそのカクテルを差し出してきた。 そのカクテルグラスには赤い口紅が付いており、女はそのことをわかっていて差し出しているのだ。 つまり、この女は俺を試している。 俺はさりげなく口紅の部分を外して一口飲んだ。 できる男は紳士たれ、だ。 「なかなか甘くておいしいですね」 正直、甘すぎておいしくはなかった。それを悟らせるような真似はしない。 「そう? 良かった」 女は妖艶に微笑んでいた。 打ち解けてきたのを見計らい、俺はそろそろ本題に入ることにした。 「あの、ちょっと外で話しませんか?」 「あら、私を誘ってるのかしら?」 この勘違い妄想女は男に飢えていると見た。抱いてしまえばこっちのものだろう。そう俺は判断した。 「そうですよ」 あえて、肯定する。 そして真剣な表情で見つめる。 「うーん、しょうがないな」 これで第二段階クリア。 俺は女の分の料金も支払うと、バーを出てラブホテルへとエスコートした。
平山亜紀 「君はこのマーケティングの資料まとめといて」 私は部下の霧島に指示した。 「わかりました」 霧島は自分のデスクへと帰っていった。 ここは私の会社であり、私はその社長なのだ。 私は高校卒業と共に会社を興し、その会社も二年を経て部下百人超を率いるほど大きく成長した。 私は近くの席の新田に声をかけた。 「新田。この顧客へのクレーム対応、少し杜撰すぎないかしら?」 「すいません、社長。他の件で時間をとられてまして」 新田は申し訳なさげに言った。 だが、私には見える。とりあえず謝っておけばいいだろうという新田の思惑が。 「言い訳を訊いているのではなくてよ。お客様一人一人を大事にしないと商いは成り立たないこと、わかっているでしょう」 「申し訳ありません」 さらに新田は頭を下げた。それが私を苛立たせた。私は謝罪が聞きたいのではない。 「他の手空きの者に回すであるとか、なんなりできたはずでしょう。次からは気をつけなさい」 私は少しきつめに言い放った。 「わかりました」 新田はうなだれていた。 ただ、そんなことに気を止めている暇はない。仕事は日々増えているのだから。 「仙道、大阪支店の進捗状況はどうなっているのかしら?」 新しく関西方面にも進出することになり、その足掛かりとして大阪支店が来月オープン予定なのだ。そして、その指揮を任せているのが仙道だった。 「滞りなく進んでおります。私も来週現地入りする運びになっています」 「そう、よろしくね」 仙道は私も信頼を置いている。彼ならば大丈夫だろう。 私は書類を鞄に入れると、 「すこし、本店の方に行ってくるから。後はまかせたわ」 と言って、本社を後にした。 本社からさほど離れていない距離にそれはある。 オールウェイズケーキと書かれた大きな看板を掲げるその店は、ケーキのデリバリーショップなのだった。 いつでもどこでも電話、またはインターネットでケーキを取り寄せることのできるショップだ。 確かに安直なネーミングだとも思ったが、名前はわかりやすい方が世間に浸透するのも早い。 本店に入ると、 「社長にお越しいただけるとは至極光栄の極みであります」 と、店長である鎌内に頭を下げられた。 毎度のことながら意味のわからない歓迎だ。本社と距離も近いということもあり、月に一、二度は顔を見せるというのに。 そのつるつるとした頭が妙にてかっているのを見せられても、私としては困る。なにが困ると言われれば、特に思いつきはしないのだが、それでも。 そのことは置いておくことにして、私は店長に問い掛けた。 「売り上げの方はどうかしら? 新商品であるわさびケーキがとても気になっているんだけど」 「ええ、それはそれは。結構購入される方も多いです」 「あら、そう。本社の方に入ってきているデータを分析すると、初日の売上は他の新商品に比べて確かに大きいわ」 本店、各支店の情報は逐次報告されて本社のデータベースに保存されていくのだ。 「それは、もう」 「ただそれは一週間しか続いていない。その後は落ち込む一方。一か月経った最近だとほとんど売れていないそうじゃないの」 「いや、それは……」 「宣伝が足りないのではなくて?」 「いや、その……」 「見渡してみても、わさびケーキのわの字も見つからないのはどういうわけかしら?」 「いや、あの、その……」 ごにょごにょと何を言っているのか聞き取れない。 「そうね。わさびケーキのチラシを作成しなさい。経費はこちらから出すわ」 「どうせ売れ――」 「それはそれでいいとして、実は今、マグロのケーキを考えているの」 「マ、マグロ? ですか?」 「子どもたちも喜ぶに違いないわ」 やはり子どもがお寿司屋さんで頼むものと言えばマグロだろう。 「は、はぁ」 「さて、では、店内を見させてもらうことにするわ」 「は、はい。かしこまりました」 店長に連れられて私は表のカウンターから調理場の方に入る。 ケーキの甘い匂いが鼻孔をくすぐった。 私は周囲を見渡すと、 「うん、まぁ、清潔に保たれているわね」 と、店長に言った。 アルバイトの従業員が数人、ケーキを作っていた。 生地をボウルからケーキ型に流し入れている者、オーブンから焼けたスポンジを取り出している者。生クリームをホイップしている者、キャベツを千切りにしている者、鶏肉を炭火であぶっている者。 「皆さん、頑張っているわね。うんうん」 私は調理場から出ると、テラスになっているそこで、思いついたように言った。 「さて、少し試食してもよろしいかしら」 それは味が落ちていないかのチェックであり、決して甘いもの欲しさではない。 「はいはい。桜庭、お願いします」 私は椅子に座るとそれを待った。 店長に桜庭と言われた男はケーキを三つ程、お皿に乗せて運んでくれた。 私は手を合わせると、 「いただきます」 と言って、口をつけた。 生クリームのほのかな甘さとイチゴの甘酸っぱさ、そしてスポンジの焼けた香ばしさが口一杯に広がり、幸せに包まれているようだった。 最もポピュラーと言っていい、ショートケーキだ。 私はそれをぺろりと平らげると、次のケーキを口に運んだ。 それは一見何も飾り気がない紫色のケーキだが、口に入れるとシンプルながら深い味わいを見せる。 沖縄でとれた良質の紅芋だけを使ったケーキ、ザ・紅だ。 それも、すべて胃に入れると次のケーキにフォークを刺す。 品の良い新鮮な甘さとくちどけが私に春を運んでくる。そして口内で溶けきった瞬間、ビターな刺激が人生の教訓を教えてくれる。 私の会社の誇れるモダンケーキの一つ、キャベツとコーヒー豆を使ったアイスケーキ、初恋だ。 「うん、どれもおいしい!」 「喜んでもらえて何よりです」 「では、これからも頑張ってちょうだいね」 私は満面の笑顔で、その場を去った。 私には見える。新規事業も軌道に乗り、順風満帆な未来が私を待っているのだ。
幕間 「皆さん、ご入学おめでとうございます」 先生が講壇に立ち、教室のみんなに向かって言った。 「これから、二年間、長い子だと、六年間になるかもしれないけど、担任を務める霧島真知子です。よろしくね」 首を斜めにしてにこやかな笑顔を見せた。 「先生。無理しない方がいいよ?」 一番前の席の男子がそう言った。 「やだわ。そんなことないわよ。これでもまだ二十八なんだから」 「おばさん」 ぽつりと、女子の声が聞こえた。 霧島先生は笑顔をやや引きつらせて、 「だ・ま・れ」 とだけ、言った。 「先生」 窓際の席の男子が手を挙げた。 「はい、何かな?」 「抱いてもいい?」 「ど、どこでそんな言葉を……」 霧島先生は人差し指を合わせてもじもじしだした。 「冗談です」 質問した男子が切って伏せた。 教室中を生徒の笑い声が包んだ。 「ん、もう。先生を困らせるんじゃありません」 少し憤慨しているようだ。 霧島先生はパンパンと両手を叩くと話を変えた。 「はい、じゃあ。みんなにも自己紹介してもらいたいんだけど」 じゃあ、名前呼ぶから一人ずつ、お願いね」 それぞれに名前を呼ばれ、生徒たちは自己紹介をしていった。 「佐藤健太郎くん」 「あ、はい、えと、よろしく」 健太郎は恥ずかしげにそれだけを言った。 「田中汐音さん」 「よろしくね〜。趣味は男で〜す」 汐音はピースでキメ顔を作った。 「平山亜紀さん」 「よろしくお願いします。好きなものはケーキです」 亜紀は小学一年生とは思えない気品を醸し出していた。 「村上雅哉くん」 「よろしく」 雅哉はポケットに手を突っ込んでややぶっきらぼうに言った。 そう、これが初めて四人が四人を認識した瞬間だった。 「さて、今適当に座ってもらっていると思うんだけど、ここから四人ずつ区切って、一班、二班、三班、四班、五班、六班、七班、八班、九班とします」 「えー、やだー」 「はい、文句言わない。これも何かの縁なんだから」 四人が同じ班になったことも偶然だったのかもしれない。ただ、世界は偶然で成り立っているということを彼らは知らない。 |