ユグノーの書庫
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第一章 目が覚めると、白い天井が見えた。 俺はまだ眠り足りない目をこすりながら上体を起こす。 鏡の向こうから寝ぐせ頭の、冴えない顔がこっちを見ていた。 俺は立ち上がり、いつも着なれたブレザーに着替える。ネクタイをゆるく締めると、頬を両手で打った。 俺はカバンを持つと、自室を出る。そして階段を降り、リビングへと向かう。 「おはよう」 母さんが俺に笑いかける。 「おはよう」 俺は同じように返すと、リビングにカバンを置き、洗面所に向かう。 顔を洗い、歯を磨く。適当にスプレーで髪を濡らすと、ドライヤーで整える。そしてワックスを手に取り、毛束を作る。 いつも通りの俺、結城一志の完成だ。 リビングに戻り、席に着くと、目の前に出されている朝食を残らず平らげる。 そして、玄関に向かうと、カバンからMP3プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳につける。今流行りの女歌手の歌声が耳の中に流れる。 「いってきます」 そう言って、家を後にした。 胸元から腰へ抜ける春風が心地良かった。 家を出て左にまっすぐ歩き二つ目の角を右に曲がる。そして、さらにまっすぐ歩き、大きな通りに出る。すぐ右にあるバス停で数分バスを待つ。 到着したバスに乗り込むと、中央付近に立った。バスは通勤・通学の乗客でいつも満員だ。 俺は、窓の外を眺めながら考える。 いつも通りの日常、いつも通りの風景。 俺はこの日常が嫌いだった。何も変わらない日常に不安さえも覚えていた。変化を求めていた。 ただ、そうそうそんなことは起こることはなくいつもと同じような日常が繰り返されていくのだ。 俺はただの歯車にすぎないのか。 俺は考えるのをやめ、音楽に身をまかせた。 学校近くの停留所でバスを降りると、その学校へ向かい歩き出した。 県立楓ノ宮高校。それが俺の通う高校だ。たいして歴史があるわけでも、最新の設備があるわけでもない、いたって普通の高校だ。 俺は校門をくぐり、校舎へ入ると、玄関で靴を履きかえた。そして、階段を昇る。 俺の教室は二階にある。一年生が一階で、二年生が二階、三年生が三階だった。 教室に入り、窓際、後ろから三列目の自席へと向かい、座る。そしてイヤホンを外すと、カバンの中にしまう。 教室を見渡すと、皆各々のグループごとに固まって、会話をしている。ただ傍から見ると、中途半端感が否めなかった。 なぜなら、まだクラス替えをして一カ月しか経っていない。誰と友達になればいいかの腹の探り合いがまだ終わっていないのだ。 俺は小説を取り出すと、そんなクラスメートを無視して読み進めた。 俺は一人で十分だった。 面倒だというより、そこに意義を見出せなかったのだ。どうせ社会に出てしまえば、高校生活の日々なんて忘れてしまうのだから。 一時限目のチャイムが鳴り、国語の授業が始まる。 窓から吹き込む春風が、眠気を誘った。俺は、教師の戯言を子守唄に眠りにつくことにした。 「助けてください」 不意に耳の鼓膜が揺れた。 俺は目を開けた。そこは黒の世界だった。自分の姿さえも黒につぶされていた。自分が目を開けているのか閉じているのかさえ疑問に思うほどに。 「助けてください」 どこからか、助けを呼ぶ声がする。俺は耳をすませた。 「助けてください」 俺は声のする方向に駆けだした。なぜか俺の心を焦燥が包んでいた。 光が見えた。俺はその光に飛び込んだ。 光を抜けると、そこには巨大な大木がそびえていた。 胴回りは大人の両腕三人分でも足りそうにない。そして、青々とした葉が生い茂る枝ははるか上空まで広がり先端が見えないほどだった。 「助けてください」 その巨木の中央に埋まるようにして、女の子の顔があった。 長い黒髪を誇っている頭部以外の全てが埋まっているようで、身動きが取れようはずがなかった。 「君は?」 俺は尋ねた。 「お願い、ここから出して」 彼女を助け出したいのはやまやまだったが、俺にはどうしていいのかわからなかった。 「もう一人の私を見つけてください」 「どういう意味だ?」 「もう一人の私に会えば、わかるはずですだから」 「どこにいる?」 「あなたは気づいていないかもしれないけれど、あなたのすぐ近くにいます」 「わかった」 俺には彼女を助ける理由も意味もなかった。だが、なぜか助けなければならない義務感が芽生えていた。 彼女が微笑むと、巨木は一瞬にして消え去った。 また、黒だけの世界に戻った。 俺は茫然と立ち尽くすことしかできなかった。 気付くと俺は、教室の中に居た。周りのクラスメートは机を移動させて、昼の弁当を食べていた。 夢だったのか? それにしてははっきりと今もその内容を覚えていた。俺は今まで夢の内容なんぞ、全く覚えていた試しがなかったというのに。 夢の中で出会った女の子。俺に、もう一人の自分を探すように言っていた。それは夢の中ではなく、この現実世界にいるということを意味しているのだろうか。 わからない。それに彼女の顔だけを頼りに探すのも幾分無理があるような気がした。 俺の近くにいるとは言っていたが、その顔に似た人物を俺は誰一人知らなかった。 俺は考えるのを一旦中止すると、学食に向かった。 券売機でラーメンの券を買い、学食のおばちゃんにそれを渡す。数分と経たず出されたラーメンを席まで持っていき、すすった。 食べ終えると、教室に戻り、いつも通り小説を読み進める。 五時限目の授業が始まっても小説を読み続ける。塾に通っている者からすれば学校の授業など全く意味をなさなかった。 塾はその個人のレベルに応じたコースを取ればいいが、学校は底辺に合わせるものだからだ。 学校で寝るか、塾の予習をしてから、塾へ通う。それが中流家庭の高校生の在り方だった。 俺もご多分にもれず、その一人なのだ。 今日の全ての授業が終わり、俺は帰る支度を済ませ、耳にイヤホンをつける。 朝来た時の順序を逆にするだけだ。 学校を出て停留所でバスに乗り、家の近くの停留所で降りる。 「あの」 突然声を掛けられた。知らない女子高生で、俺の通う高校の制服ではない。 だが、見覚えがあった。夢の中に出てきたあの女の子に瓜二つだった。 「好きです!」 俺は呆気に取られた。急も急すぎて正直慌てていた。 「いや、突然そんなこと言われても」 「付き合ってください!」 「あ、は、はい」 彼女の気迫に押され、俺は思わず肯定の返事をするしかなかった。 日本人はノーとは言えないとされるのも、うなずける話だった。 「ありがとうございます!」 彼女は一礼をするとスキップをしてどこかに去って行ってしまった。 俺はその背中を茫然を見つめるしかなかった。 なんだったんだ、あれは。 名前も連絡先も分からないのに、彼女のことをあれこれ考えても無駄だと気付いた俺はそのまま家に向かった。 家に帰ると、自室に戻り、スピーカーから曲を流した。そして塾の予習をする。 勉強に飽きてきた俺は、脇に置いてあったアコースティックギターを携え、流れてくる曲に合わせてコードを刻む。 塾の時間が迫ってきたので、机の上のテキストとノートをカバンに詰め込み、家を出る。 自転車に乗り、十分ほど走らせたところにその塾はある。 一階の教室に入り自席に着くと、小説を読みながら先生を待つことにする。 一通り授業を受け終えると、一旦塾を出てファーストフード店で夕飯を取る。 そして塾に戻ると、また授業を受ける。 学校の授業とは違い、皆真剣で、カリカリと言うシャープペンシルの音とテキストをめくる音しか聞こえては来ない。 そこそこの大学に行って、そこそこの会社に入って、そこそこの給料をもらって、そこそこの生活をして、そこそこの死に方をする。一生はすでに決まっている。そこから抜け出そうものなら、それ相応の覚悟と努力を強いられることになる。 親というものは、子供を辛い目に会わせたくないと思うのが常である。安全で失敗のない方向にレールを敷き、導く。 子供は幼少期からの教育という名の洗脳を受け、そのレール上でしか生きられなくなる。 それでいい。所詮凡庸な一人の人間にできることは限られている。 何事も諦めが肝心だ。諦めることで人は大人に一歩近づくのだろう。 それがわかっていても、俺にはどうしても諦めることができないでいたんだ。 授業が終わると、俺は家路を急いだ。 辺りは真っ暗で、自転車の丸い灯りだけが頼りだった。 不意に、その円の中に人影が横切った。 危ない。と俺が思うのもつかの間、その人影はひょいと自転車をかわすと、 「危ないわね!」 と、俺に向かって叫んだ。 俺は自転車を止めると、 「大丈夫?」 と、声を掛けた。 「大丈夫なわけないでしょ? 一歩間違えれば骨折していたかもしれないわ」 「それは、ごめん」 俺は気押され、自然と謝っていた。前にも似たようなことがあった気がした。 その人影が顔もわかるまでの距離まで近づいてきたとき、その人影は嬌声を上げた。 「ひゃあ」 そのお粗末な声がさっきまでの怒気とはあまりにも不釣り合いだったので、拍子抜けしてしまった。 「二度目かな」 と、俺は言った。下校時に声を掛けてきた女の子だったのだ。 彼女は慌てた様子で頭を下げた。 「あの、ごめんなさい」 俺は名前を訊きそびれていたことを思い出し、一応訊いておくことにした。 「えーと、名前は?」 「私? 木之元恵って言います。友達からはメグって呼ばれてるので、良ければメグって呼んでください!」 大きい目が眩しいほどにきらきらしていた。 「えっと、メグさん」 「いえ、メグでいいです」 「そう? そうだ、俺の名前は――」 「一志さんですよね?」 「何で俺の名前を?」 「いや、その、たんて……いえ、違います。友達に訊いたんです」 何か良からぬことが聞こえた気もするが特に言及しないでおくことにする。 「そう。それで、俺のことが好きとか言ってたけど、俺はやめておいたほうがいいよ」 「もしかして彼女とかいるんですか?」 恵は悲しそうな顔で訊いてきた。 「いや、いないけど。いたって普通の男だし、面白味もない。俺なんかと付き合っても良いことなんて一つもない」 「そんなの付き合ってみないとわからないじゃないですか!」 押し迫る勢いだ。 「は、はぁ」 「それに、付き合ってくれるって言ってくれましたよね?」 「まぁ、言ったけどさ」 「なら、もういいんです。私とあなたとは恋人同士。それはすでに決定したことです!」 恋する乙女のパワーはこれほどまでなのかと、呆れるしかなかった。 「わかったから、今日はもう遅いし、帰った方がいいんじゃないかな」 俺は心底疲れたので、そう提案した。 「そうですね。それではまた明日」 恵はうれしそうに手を振って全速力で駆けて行った。 恵が交差点を出たところで、それは起こった。 飛び出してきたトラックにぶつかり、恵の体はトラックの下に消えていったのだ。 一瞬の出来事に、俺は成す術もなく固まっていた。 トラックから降りた運転手は慌てふためきながらも携帯電話を取り出し電話を掛けていた。 数分後、救急車が到着し、恵は運ばれていった。 俺は遠くからそれを見守ることしかできないでいた。 俺は何も考えることができず、家まで自転車を押して帰った。 自室に戻ると、俺は着替えもせず、ベッドの中に入り、布団にくるまった。 体の震えがどうしても止まらなった。 救急車で運ばれていく血まみれの恵が脳裏にこびりついて離れなかった。 変化を求めていた俺にもたらされた結果がこれだった。 俺は、いつの間にか眠りに落ちて行った。 |