ユグノーの書庫

Top  About  Profile  Novel  Recommend  Mail  Link


慈しみの果て

「お義父さん、そこはトイレじゃないですよ。そこは押入れですよ」
 義父は最近、ますますぼけが激しくなったようだ。
 夫は先に逝ってしまった。
 卑怯だ。義父を残して逝ってしまうなんて。
 義母はすでに死んでいる。なら他に身よりのない義父を介護するのは、私しかいないじゃないか。義父が老人ホームを嫌がっていることを知っているからなおさらだ。
 白髪を染める暇なんて私には無い。化粧ももうしなくなった。
 女であることを捨てた私は、もはやただの家政婦人形だ。
「飯は……」
「お義父さん。さっき、ご飯は食べたでしょう」
 私はもう疲れきっていた。
 何度義父の首を絞めようとしたことか。
 でも、私にはできなかった。
 この家に嫁いで来て、三十余年。すでに、実家で暮らした以上の年月が経っていた。
 築百年は経っているんじゃないかという古めかしい家。
 ふすまには息子の開けた穴がそのまま残されており、柱には成長を表す傷がついている。その息子も、もう独り立ちした。
 もう十分がんばったよね? もう休んでいいよね? もう……。
 私は梁にビニール紐をかけると、痛くないようにタオルをはさみ、椅子を踏み台にして首をかけた。
 そして、椅子を蹴り倒そうと、
「治夫はどこ行ったんじゃ?」
 義父がこちらを見ていた。
「私も夫のところへ逝ってきます」
「そうか、寂しくなるな」
 義父は夫以上に卑怯だ。卑怯だ。卑怯だ。卑怯ですよ……、お義父さん。
 私は、椅子を降り、
「すこし買い物に行くだけですよ」
 と微笑みかけた。