ユグノーの書庫

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RB 
 

第五章  Reason Break

 

 優馬が犯人逮捕のニュースを見たのは病室でのことだった。

 あの日、優馬は途中から気を失っていたので、その時のことを覚えてはいない。

 心はその時に深い傷を負ったらしく、一命は取り留めたものの、未だ予断を許さない状況だという。

 そして退院した今、優馬はバーで出会った女性の見舞いに来ていた。

 受付で女性の病室を尋ねようとしたが、名前を知らないことを思い出した。果たして、病人の名前すら知らない男に病室を教えてくれるだろうか。

 だが、優馬は会いたい気持ちを抑えきれず、受付に突進していた。

「手首を失った女性の病室を教えていただきたいのですが」

 優馬の唐突な問いに、目尻に皺を寄せた初老の女性が対応してくれた。

「なんですか、藪から棒に。あなたはご家族か何か?」

「い、いえ、その」

 優馬が言い淀むのを見て、受付の女性はピンと来たようだ。

「わかったわ。あなたもマスコミでしょう。あの事件のことを訊こうと今までもたくさんいらしたもの」

「いえ、そうではないのですが」

「マスコミはみんなそう言うのよ」

「違いますって」

「もういい加減にして。こっちは忙しいの」

 決めつけてかかっているのか、優馬の否定を頑として受け入れようとはしない。

「わかりました……」

 優馬はそれ以上の交渉は無理だと判断し、病院を出ると、そこに広がる庭のベンチに腰を下ろした。

 目の前では車椅子を押されている患者の姿や、元気にボールを蹴っている子供の姿が見られた。

「どうすれば、あの女性に会うことができるのだろう」

 優馬は肩を落とし、コンクリートの地面を眺めた。

 優馬はあの日のことを思い出していた。

 あの女性とのバーでの会話を。そして、その女性から流れ出る血の色を。

「くっ」

 結局、あの犯人に何もできなかった。

 京都でバイクに乗る犯人を見つけた時には、自分に幸運の神様でも付いているのかと思ったほどだった。

 だが、車で追いかけた先の霊園で逆に捕まる羽目になってしまうとは。

 柔道は所詮スポーツだということか、実戦では役に立たなかった。犯人は喧嘩慣れしているようだった。

 無様だ。自分にあの女性に会う資格があるのだろうか。

と、優馬が考えていた時、

「あら、あなたは」

と、声を掛けられた。

「ん?」

 優馬が顔を上げると、そこにはあの女性が立っていた。

 不意を突かれた形になり、優馬は焦りの色を隠せなかった。

「ちょっと、その手首どうしたの?」

 優馬の右手が無くなっていることに気付いたらしい。

「いや、これはその……」

 自分も犯人にやられた、とは恥ずかしくてとても言えやしなかった。

「お揃いね」

 その女性は笑っていた。手首を失ってなお笑っていられる強さがその女性にはあった。

 その笑顔が優馬のつまらないプライドを打ち砕いた。

「俺も犯人に手首を切られたんです」

「まさか、そんな」

 女性は口に手を当てて驚いていた。

「俺はあなたから手首を奪った犯人を許せなくて。それで、犯人を追いかけていたんです」

「そう」

「でも、逆にやられてしまって」

 悔しさに失った右手首を左手で握りしめた。

「ごめんね。そして、ありがとう」

「いや、俺は何もできやしなかった」

「それは違う。あなたが私のために行動してくれたこと。それがうれしいの」

「でも、俺は――」

 それでも言い募ろうとする口を女性の人差し指が閉ざした。

「いいこと? 大事なのは結果だけじゃないの。大事なのは、ここ」

 そう言って、女性は優馬の胸を指差した。

「結果が全てだ、なんて人は言うけど、それは客観的に見た場合にすぎない。当事者にとってみれば結果よりも大事なことがあるはず」

 優馬は女性の言葉に聞き入っていた。

「あなたの思いは確かに私に伝わった。私にはそれで充分」

 そう言って、優馬の右手首をその女性は左手と右手首で覆った。

 優馬は救われたような気持ちで目を閉じた。

「あの日、私が最後に見たのはあなたの悲しげな目だった。今でもそれははっきりと覚えている」

「うろたえるばかりで何もできなかったですけどね」

 優馬は自嘲気味に笑った。

「もう、私が言いたいのはそんなことじゃないのに」

「はい。もう、大丈夫です」

 それを聞いて、女性は安心したらしい。

「そういえば私、あなたの名前も知らなかった。教えてくれる?」

「斉藤優馬といいます」

「優馬くんね。私は長谷川(はせがわ)汐音(しおね)

「長谷川さん」

「汐音でいいわよ。なんてったって私の王子様だもの」

 王子様と言われ、優馬の頬が赤くなった。

「王子様ってそんな」

「頼りない王子様だけどね」

 汐音はからかうように笑った。

「そりゃないですよ」

 優馬もつられて笑っていた。

 二人の間を秋風が吹き抜けていった。

 

 一方、悟は心の病室の前に立っていた。

 心は未だ意識を快復せず、面会謝絶の状態であった。

 悟の中には、刃と心、二人のことが渦巻いていた。

 結局、悟は何もしていない。刃を止めたのは心だ。

 不甲斐ない自分を責める気持ちと、心が死ぬかもしれないという不安がないまぜになっていた。

「あなたは?」

 不意に、年配の女性が悟に話しかけてきた。

「あ、その、俺は心の――」

 友人だと断定するのがためらわれた。

「――刃の昔の友人です」

「そう」

「心さんとも会ったことがあって、こうしてお見舞いに」

「そうだったのね」

「失礼ですが、あなたは?」

「私は心の叔母です」

 そこに刃の名前が出なかったことに悟は気付いていた。

「すいません。親族以外の面会を断られてしまって。会わせていただけませんか?」

「そうね……。兄さんたち、あ、心の両親はもういないから、私くらいしか来ないものね。わたしもそんなに会っていた方ではなかったし。いいわ。お入りなさい」

 悟は心の叔母に連れられ、病室へと入った。

 病室はとても質素で真っ白な室内にはベッドが一つ置かれていた。

 そこにチューブにつながれている心が横たわっていた。

「心」

「こちらにお座りになって」

 心の叔母は壁に立てかけてあったパイプ椅子を悟に差し出した。

「いえ、俺はいいですから」

「あら、そう?」

 パイプ椅子は一つしかなかった。

 心の叔母はその椅子に腰かけた。

「こうして、たまに様子を見に来るんだけど。やっぱり変わらないわね」

 心の叔母は沈痛な面持ちで語った。

「兄さんたちがあんなことにあってから、ますます会わなくなってね。まさかこんなことになるなんて」

 悟は何も言わず、ベッドのそばで心を見つめていた。

「そうだわ。ちょっと飲み物買ってくるわね。心のことよろしくね」

 そう言って、悟を残し、心の叔母は病室から立ち去っていった。

「心。刃は捕まった。刃はもう大丈夫だと思う」

 心が言葉を返すことはない。

「俺も、高卒認定を受けて、大学を目指すことを決めたよ。だからさ。後は心が元気になるだけなんだ」

 全く動かない心。悟は不安に駆られた。

 優馬をかばった時の心の表情が忘れられないでいた。

「弟を殺人犯にするつもりか? なあ、心、答えてくれよ」

 悟が心に詰め寄るが、やはり心は浅い呼吸を繰り返すだけだ。

「お願いだ。心。帰ってきて」

ひざまずき、握りしめた両手に頭をつけ、悟は懇願した。

また元気な心に会わせてください。

静寂が病室を包んだ。

窓から差し込む日の光が心を照らしている。

心持ち室内の温度が上がった気がした。

悟の頬を一筋の水滴が流れ落ちた。

悟は目を閉じた。

泣くことを忘れてからどれくらい経っただろう。

引きこもるようになって、ネット上でしか付き合いが無くなって以来、悟はどこか冷めていた。

いつも、自分を物事の外側に置き判断していた。

それがこの一連の事件が起こってからというもの、心が熱を持ち始めたように感じていた。

悟が顔を上げると、こちらを向いた心と目が合った。

心が悟を見て不思議そうな表情をしていた。

「なんで、泣いてるの?」

 悟は袖で涙を拭くと、心に微笑みかけた。